諏訪地方には武田信玄ゆかりの場所や伝説がいくつもあります。歴史的な根拠がしっかりとあるものもあれば、史実に基づいた創作だったり、はなっから出鱈目だったり様々ですが、それだけ信玄公が諏訪にとって特別な存在だったということだと思います。
そんな数多くの信玄公の伝説で、おそらく一番有名なのは信玄公の石の棺が諏訪湖に沈んでいるというやつではないでしょうか。
信玄公は「自分が死んでも3年間は秘密にしろ。 亡骸は甲冑を着せて諏訪湖に沈めろ」と遺言を残したという伝説があります。信玄と言えば隠し金山の伝説も多く、「亡骸と共に埋蔵金もあるのでは!?」なんて話もあったそうです。
TV番組で調査したことがあったらしく、一時、この話がブームになっていたそうなので、この記事のタイトルを見て、「あの話か!」って、思った方も多いかもしれませんが、すみません。今日は別の話です。
信玄公の墓って、実はいたるところにあるのです。もっとも、諏訪湖の話などのような伝説を含めての話ですが。
そして、今回紹介するのは、諏訪でもあまりメジャーではない信玄公の墓(?)についてです。
信玄公の墓
甲府の躑躅ケ崎(つつじがさき)の館跡に信玄公を祀った武田神社があります。ここから数百メートル東、住宅地の中を進むと武田信玄公御墓所があります。前述の信玄の遺言に従い、亡くなってから3年後に、塩山の恵林寺で葬礼を行い、ここに埋葬されたと言われています。
死を隠していた3年の間葬らえていたともいわれているそうですが、江戸時代にここを調査すると、石棺があり、銘に信玄の戒名があったため、墓石を作って整備し、幕府に届け出て信玄公の墓と定められたそうです。
しかし、ここ以外にも信玄公の墓と言われる場所は何か所もあります。領国だった甲斐・信州の有名なものに限っても塩山の恵林寺や甲府市内の大泉寺、長野県の長福寺、龍泉寺、それに諏訪湖の底って伝説がありますし、愛知県の福田寺、陶龍寺、京都の妙心寺や高野山などにもあるそうです。
正直、どれが最有力なのか私にはわかりませんし、どれも「…と伝えられている。」という類であり、どれも決め手に欠けるような気がします。
喪を3年間秘めていたことや埋葬地を秘密にしていた結果なのでしょうが、なんともロマンを駆り立ててくれる。
っで、問題の信玄公のお墓は何処にあるの?
さて、信玄公の墓があちこちにあり、どれが本物かわからないってことはわかっていただけたと思いますが、そんな真偽の定かではない墓の一つが諏訪にあります。
一応、ここでは真偽が定かではないと書きましたが、私自身はタイトルに書いたように、「本物なワケがねぇだろ!!」と思っています。
そんな怪しい墓は諏訪大社本宮のすぐ近くにあります。
この二つの記事で紹介した法華寺に、正確には、法華寺の隣にかつてあった神宮寺の跡にひっそりと佇んでいるのです。
こんな案内も出ています。諏訪大社のお隣で、こんな案内見つけたら興奮しますよね。どんなところだろうって。
でもね…
これが信玄公墓碑? いや、いや、そんなわけないでしょ。
場所だけ聞けば、ありそうといえばありそうですよね。信玄の大切にしていた諏訪大社の神宮寺にあるわけですから。
でもね、その墓碑を見てしまうとね…
まぁ、百聞は一見に如かずと言いますから。
これです。これが、信玄公の墓碑です。右の石がそうです。
錆びついていて読みづらいですが、近くで見てみると、確かに案内には信玄とあります。
墓碑の方も確認してみましょう。
何か文字が刻まれていますが、傷みが激しく、私には判別できませんでした。
ちなみに隣の石ですが、案内板を読んでみると、
坂上田村麻呂碑とあります。
東北平定に向かう際に諏訪大社に参拝していったらしいので、その縁からの供養碑でしょうか。
左の案内に関しては全く読めませんでした。
まぁ、これはさすがに本物の信玄公の墓ということはないと思います。隣に坂上田村麻呂の碑があることから考えても、供養碑ではないかと思います。
諏訪湖の棺に関しても、私は敵を欺くためのフェイクではないかと思っていますが、アチコチにこうした伝説が残るということはそれだけ偉大な人物だったんだろうなぁっと思うと同時に、諏訪って信玄に征服された側なのに、どうしてこうも信玄人気なんだろうとか、勝頼の伝説とかがもう少しあっても良いんじゃねぇの?とか思ってしまいます。
では、また。