子どもの頃、地元の歴史を学ぶと諏訪の武士は戦国時代は武田に敗れ、幕末も水戸浪士にやられるなどパッとしない。なんだか、諏訪の武士ってのは弱いのかなぁっとガッカリしていました。でも、そんなことはないんです。諏訪の武士団が輝いていた時代もあるんです。今日はそんな話。
霧ヶ峰の御射山で開かれた全国競技会
写真は八島湿原です。この湿原の先に今日の話の舞台があります。
中世における諏訪の最大の祭りは8月27日を中心に行われた御射山祭(みさやまさい)でした。霧ヶ峰高原八島湿原の東、旧(もと)御射山で祭事が行われ、地元諏訪の武士や信濃・甲斐の武士は言うに及ばず、全国各地の鎌倉御家人や武将が集まり神事の後に武技を競いました。
諏訪の神様、建御名方神は平安時代にはすでに名声は高まっていましたが、戦神・武術の神としての信仰が高まったのは鎌倉時代のことです。
ここ霧ヶ峰高原八島湿原には諏訪大社下社の山宮として御射山社があります。この社は本来、田を潤す水源を守る山の神(田の神)を祀るものでしたが、前述のとおり、鎌倉時代には、この一帯で、諏訪大社に奉納する武術の競技大会が開かれるようになり、そのころから戦神としての神格を強めることとなります。
これが現在の旧御射山社。
競技大会が開かれた一帯には碑もありました。
弓術と馬術が武門のステータスとされるようになったのはこの時代のことで、源平の屋島の合戦で名を馳せた那須与一などもこの武術競技会に参加していたそうです。
全国に諏訪神社が多いワケ
ここで奉納された武術の競技で際立って鮮やかな諏訪武士の技に感じ入った諸将が、「これこそは諏訪明神のご加護によるものであろう、それにあやかりたい。」っと、御分神を領国に勧請したのが全国に諏訪神社の多い理由の一つだとされています。
御射山の祭典は、例祭として続けられてきましたが、何分にも社が下社から遠距離のところにあり、道も険しく不便なことから、慶長(1596-1615)の頃、下諏訪から約4㎞の武居入りに遷座しました。この遷座先の新しい御射山社と区別するため元の社を旧(もと)御射山といいます。
旧御射山社前には当時の競技場跡があり、土壇の桟敷跡が残っています。
なにせ鎌倉時代のものですから風化も進んでしまっていて、チョッとわかりずらいですが、それでも階段のように段々になっていることが分かりますよね。ここが当時の競技会の観覧席です。
今は何もない原っぱです。でも、ここに全国の名だたる武将らが集まり技を競い合ったのです。少年ジャンプ的な熱いドラマもあったかもしれません。
そんな想像、空想、妄想にふけるのが史跡巡りの醍醐味だと思います。
では、また。