横綱の白鵬が猫だましを使ったとかで、なんだか、へんな方向に盛り上がりを見せている大相撲ですが、こんなことが問題になるっていうのだから、ファンが減少傾向とは言っても、日本人ってのは今も相撲大好きなんですねぇ。
ここ諏訪でも相撲は昔から人気で、イベントや神事などがあったりと文化の一部となっています。
今日はそんな諏訪と相撲の話。
相撲の起源
一般的に、相撲の起源といえば、野見宿禰(のみのすくね)の話が有名です。
彼は出雲の出身で力自慢で有名だった。垂仁7年7月7日、彼はわざわざ出雲より大和に呼び寄せられ、天皇の御前にて、当麻蹴速(とうまのけはや)という者と 相撲を取ることになる。但し、相撲とは言え現代の相撲とは姿が違う。勝敗を決した決まり手は野見宿禰の蹴り。なんと、野見宿禰は当麻蹴速を蹴り殺して勝利したのです。
天皇はその強さに感激し、野見宿禰は、天皇に仕えることになります。彼は優れた人物で、殉死を止めさせるために、埴輪(はにわ)を考案したことでも知られています(そんな人が相撲で相手を蹴り殺すってのが、どうにも私には理解できません)。
その後、年代が下って、相撲節会(すもうせちえ)と いう祭りが、野見宿禰の逸話に因んで、天平6年(734年)の7月7日から正式に執り行われるようになりました。これが大体一般的に語られる相撲の起源の話です。
しかし、諏訪では別の話が相撲の起源として伝えられています。
諏訪に伝わる相撲の起源
諏訪大社上社本宮には江戸時代に活躍した大関・雷電の像がある。
ちなみにこの像は昨日の記事で紹介した八重垣姫の像と同じ作者が作っています。
こんなものがあるくらいだから、諏訪大社と相撲に関係があることがわかると思う。では、どのような関係があるのか。
「古事記」に相撲にまつわる有名な話、そして古代諏訪を考えるにあたり大切な話があります。「国譲り」の物語がそれです。
天照大神は出雲国を支配していた大国主命に、出雲の国を譲るよう使者をつかわします。しかし譲れと言われて譲れるようなものではありません。そこで、大国主命の子の建御名方神は、使者の建御雷神に対し、“力くらべ”によって事を決めようと申し出ました。
二人の神は、出雲国伊那佐の小浜で力くらべをします。結果、建御雷神が勝利し、負けた建御名方神は諏訪へ逃れ、諏訪の神となります。こうして国譲りが行われたわけですが、この力くらべをもって相撲の起源と諏訪では言っているわけです。
この話は重要なことを決めるにあたり、相撲をとることによって天意を知ろうとしたこと、つまり相撲の起源は神事であり、祀りごとや占いと深い関係があったことを物語っているのではないかと思います。
懸賞を受け取るときの相撲の手刀の所作
勝った力士が懸賞金を受け取るときに、手刀を切りますよね。あの所作、一応、軍配に向かって左・右・中の順に手刀を切り、左が神産巣日神(かみむすびのかみ)、右が高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、中が天御中主神(あまのなかぬしのかみ)の五穀の守り三神に感謝する礼儀とされています。
でも、「心」という字を切っているという話を聞いたことはありませんか?
懸賞を受け取る際に手刀を切ることは、昭和四十一年七月場所から正式に相撲の規則として実施されているそうですが、それ以前は解釈が様々あったのではないでしょうか。
このあたり、私、不勉強で良くわからないのですが、諏訪でも別の解釈があるので、地域差があるのではないかと思っています。
さて、諏訪での解釈ですが、手刀の切り方については同じなのですが、三神がチョッと違う。
諏訪の場合、「鹿島、香取、諏訪明神」と三神の神様に感謝を云って手刀を切るといわれています。鹿島・香取というのは茨城県の「鹿島神宮」の建御雷神と千葉県の「香取神宮」の経津主尊のことで、国譲りの際に使者として出雲にやって来た神で、諏訪明神にとっては相撲の対戦相手と行司です。
歴史的事実と違うと怒らないで
本宮をご案内する際にこの話をするときは必ず、「諏訪ではこう言われています。」と断わりを入れています。そうしないと、「そんなことはない!!」となりますから。
歴史認識って言葉がありますが、まさにそれだと思います。神話の時代のことですし、何が真実かはわかりませんが、とにかく、地元ではそういわれています。そういう認識なんです。ってことです。
歴史的事実として間違っているのではなく、認識が違っているだけなので、そんな違いも含めて地域の歴史とか文化だと思って地方への旅を楽しむと世界が広がって楽しいと思います。
では、また。