先週放送のNHK大河ドラマ「真田丸」で、非業の死を遂げた親方様こと武田勝頼。かれは、武田晴信(信玄)の四男として生まれるが、母は信玄と敵対した諏訪領主・諏訪頼重の娘・諏訪御料人(実名不詳)であった。
このことが彼の後年の苦労や悲劇につながるのだが、それについて書くにはまだ知識も文章力も足りないので、今回は勝頼ではなく、その生母について少しだけ。
信玄に嫁ぐまでの流れ
諏訪御料人は実名が定かではない。そのため小説やドラマなど作品によって呼び名が様々です。有名なところで言うと、大河ドラマ「武田信玄」に登場した湖衣姫(こいひめ)や、同じく大河ドラマ「風林火山」の由布姫(ゆうひめ)などがあります。ややこしいですが、同一人物です。
以前に書きましたが、諏訪湖畔の八重垣姫は別人です。というか、完全な創作物です。 地元の諏訪の人でもこんがらがっている人いますが、上の二人は同一人物で勝頼の生母。八重垣姫は上杉謙信の娘で勝頼の許嫁という設定の創作物。諏訪姫は良くわからんけど、諏訪市の萌えキャラです。
さて、諏訪御料人は晴信(信玄)の側室としてを武田氏の居城である甲府の躑躅ヶ崎館へ迎えられるわけだが、そこまでの流れについて簡単に説明。
武田氏と諏訪氏は信玄の父の信虎の頃には同盟関係にあり、諏訪頼重の正室には信虎の娘・禰々が迎えられるなど、良好な関係でした。ところが、父の晴信が信虎を追放する形で家督を相続すると両家の関係は冷え込み、ついに武田氏による諏訪侵攻が始まります。
武田氏により諏訪地方は制圧され、諏訪頼重は甲斐甲府の東光寺において自刃。ここに諏訪頼重ら諏訪一族は滅亡します。
信玄は当初、諏訪家惣領に頼重と禰々の子である千代宮丸(寅王丸)を擁立しましたが、やがてこれを破棄(頼重遺児の千代宮丸は諏訪惣領家を相続することなく廃嫡。千代宮丸を擁立していた諏訪満隆が切腹を命じられています。)し、自らが頼重の娘を側室に迎え、生まれた男子に諏訪惣領家を継承させる路線を選択したといわれています(このへんは諸説あり)。
勝頼が諏訪勢からの支持を得られなかったのは、彼の資質というより、このへんの信玄の謀略による感情的なわだかまりのせいだったかも知れません。また、頼重の娘である諏訪御料人を迎えることには武田家中にも反対論があったと言われており、生まれる前から敵だらけの勝頼に同情を禁じ得ません。
ともかく、政治的な駆け引きのため、諏訪御料人は実の父を死に追いやった信玄の元に15歳で嫁ぐこととなり、信玄の子、勝頼をもうけることとなるのです。戦国の世のこととは言え、何とも惨い話のような気もします。
物語の影響
信玄最愛の女性と言われてはいますが、本当かどうかは疑わしいです。そもそも、名前すら定かではないのに、その人物像を伝えるような史料など存在するはずもないのです。
結果的に勝頼が武田を継いだために、「信玄が諏訪御料人と勝頼を溺愛した」という物語が創作されたのだと私は思っています。武田家の通字「信」を勝頼には与えられておらず、諏訪家の通字「頼」を名乗っていることからも、当初は勝頼には諏訪家を継がせるつもりだったのでしょう。
彼女のイメージはそのほとんどが歴史的な事実に基づくものではなく、後年の創作物によるものなのだろう。その良い例が岡谷にあります。
小坂観音院の供養塔
諏訪御料人は弘治元年(天文23年とも)に死去し、その墓所は長野県伊那市高遠町の建福寺(当時は乾福寺と称した)にあります。しかし、地元諏訪にも墓所と言われている場所があります。
岡谷市の小坂観音院には諏訪御料人の供養塔があります。供養塔であって、墓ではないのですが、すっかり墓所だと思われています。
井上靖の『風林火山』で由布姫(諏訪御料人)は信玄の側室となって勝頼を生み、その後、この観音院で暮らしたが、病のため25歳でこの世を去ったとされており、その設定により、このように考えられているのだと思います。
小坂観音院からは諏訪湖が眺められます。実際に、由布姫がここでお過ごしになられたのであれば、眺めていたであろう景色だと思うと、ほんの少しだけ悲哀を感じます。
腰がまだ酷くて、PCの前で長時間座っていられませんので、今日もストックの記事からでした。写真に季節感がないのはそのためです。
しばらく、こんなのが続くかもしれませんが、歴史ものとか嫌いでなければお付き合いください。
では、また。