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伊達正宗の娘・五郎八姫にちなんだ「いろは紅葉」を夫・松平忠輝の眠る貞松院で見てきた。

秋も深まり各地の紅葉のニュースを目にする日が多くなりました。

身近なところにも紅葉の名所がいくつかあり、散ってしまわぬうちに見に行きたいと思っていますが、そういう数ある紅葉の名所に行く前にどうしても見ておきたいもみじが1本あり、今日仕事の合間に見てきました。

高田開府400年を記念した貞松院のいろは紅葉

紅葉といえば椛や楓などの沢山の木々が立ち並ぶ風景を楽しむものですが、私が今回見てきたのはたった一本のもみじです。

それがこれ。

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何の変哲もない普通のもみじです。

諏訪でも現状では有名とは言い難い紅葉です。知らない人の方が多い、というか、ほとんどの人が知らないと思います。

しかし、このもみじの案内も見てもらうと、「おお!これは!!」と思うかもしれません。それがこれです。

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高田開府400年を記念したいろは紅葉です。

何のことかわかった人は間違いなく歴史好き。

ウィキペディアによるといろは紅葉はごくありふれた紅葉だそうです。

イロハモミジ(いろは紅葉、学名 Acer palmatum)は、ムクロジ科カエデ属の落葉高木である。イロハカエデ(いろは楓)などとも呼ばれる。
日本では最もよく見られるカエデ属の種で、紅葉の代表種。本種より作られた園芸種も多い(#変種・園芸種を参照)。

ですが、ここのいろは紅葉はチョッと意味合いが違います。

観光ガイドで街中を歩いているときに見つけまして、「これは紅葉の季節には絶対に見に来よう。」と思っていました。

何の事だかわからないという人、これから順に説明しますのでまだページを閉じないで下さい。

貞松院と松平忠輝公

このいろは紅葉は貞松院というお寺にあります。浄土宗の寺で正式には迎冬山貞松院仙寺といいます。もともとは片羽にあった慈雲院という天台宗の別の寺院が文禄2年(1593年)に浄土宗に改宗し、現在地に創設されたそうです。

正保2年(1645年)に高島藩の2代藩主諏訪忠恒が生母貞松院殿の遺志により再興して菩提寺とし、寺号も貞松院の法名からとって改めました。

さて、このように貞松院は高島藩とゆかり深いお寺なのですが、実はそれだけではないのです。

これが本堂の全景です。

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 屋根の上に注目してください。丸い金色のものが3つ付いていますよね。

これをジックリと見てみると、最近大河ドラマで見慣れた家紋があります。

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葵の御紋です。

実は、このお寺、徳川家ともゆかりが深いのです。

このお寺の境内には貞松院殿や藩主の子らの墓の他に、徳川家康の六男、松平忠輝の墓もあるのです。

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これがその墓です。

墓碑の高さは124㎝とそれほど大きなものではなく、尚且つ材質も諏訪市神戸の沢から出たという花崗岩の自然石という質素なものです。

その清楚さは「東に忠輝、西に光悦(本阿弥光悦のこと)」と称えられる名墓碑だそうです。どの辺がスゴイのかは私にはよく分かりませんが、将軍家に連なる者の墓とは思えぬ質素さだけは分かります。

宝永3年(1706年)に5代将軍徳川綱吉が忠輝の供養料として伊那郡三日町のうち30石を寄進したので諏訪唯一の御朱印寺となりました。

貞松院に眠る松平忠輝ってどんな人?

先にも書いた通り、松平忠輝は徳川家康の6男です。有力大名との関係を深めようとする家康の策謀の一つとして、奥州の伊達政宗の長女・五郎八姫と結婚しました。

はい、ここで問題。「五郎八」の読み方分かりますか?

ごうろうはち? ごろはち?

正解はい・ろ・は です。これでいろは姫と読みます。

伊達家後継者となる男児誕生を熱望していたため、男子名である五郎八しか考えていなかった政宗が、そのまま五郎八姫と命名したとか、健康に育ってほしくて男子名にしたとかいわれていますが、何とも正宗らしい名前の付け方です。

渡辺謙主演の大河ドラマの独眼竜正宗では沢口靖子さんが演じられていましたよね。そして、松平忠輝を真田広之さんが演じていました。

私が初めて見た大河ドラマはこの独眼竜正宗だったのですが、この三人が初めて顔を合わせたシーンが忘れられません。

 

五郎八姫を見つけた忠輝が声をかけます。
「忠輝じゃ、面を上げぃ。」
「それでは、見えぬっ。」
と五郎八姫に近寄って顔を覗き込みます。

思いのほか可愛いかった五郎八姫をすっかり気にってしまった忠輝だが、そのこと悟られまいと一生懸命背伸びをします。もう、まるで青春真っ盛りの中学生みたい。
そこへ20代とは思えぬ風格の渡辺謙、じゃなかった、義父となる正宗パパが登場。

「五郎八は気に入りましたかな?」

と余裕綽々で現れるから、ついつい意地を張り、
「嫁は人質だ。」
とか何とか言ってその場を後にしようします。

そんな若さ溢れる忠輝に若き日の自分の姿を見た正宗は御満悦。
そこへまたバタバタとかえってくる忠輝の捨て台詞。

「正宗。俺は五郎八が気に入った。嫁にしてとらす。ありがたく思え!」

 

そんなシーンがありました。

松平忠輝は家康の6男にして、正宗の娘の旦那。そんな人なのです。

五郎八姫と結婚後の松平忠輝

この後、松平忠輝は越後高田藩主(福島城主)に任じられます。当初は、堀氏が築いた福島城の城主でしたが、慶長19年(1614年)に高田城を築城し、これに移ります。高田城は幕命(天下普請)により、忠輝の義父である伊達政宗をはじめとした13家の大名の助役で築造された名城です。

紅葉の案内にあった高田開府400年とはこの時から400年ということになります。それを記念した植樹ということです。

高田の基礎を作った松平忠輝の正室・五郎八姫にちなんでいろは紅葉を植樹しているというわけです。

では、なぜ忠輝の墓が諏訪にあるのか、そして質素な理由は?

実は松平忠輝は後に幕府から警戒され改易されています。

元和2年(1616年)兄である2代将軍徳川秀忠から改易を命じられ、伊勢国朝熊に流罪とされました。続けて元和4年(1618年)には飛騨国高山に、そして寛永3年(1626年)にはここ、信濃国諏訪に流されたのです。

正室の五郎八姫は忠輝が改易されると離縁され、父の政宗のもとに戻り、以後は仙台で暮らしています。忠輝は一人、幽閉先である諏訪高島城(南の丸)にて余生を過ごすこととなったのです。そして天和3年(1683年)7月3日、92歳で死去しました。

 

松平忠輝を慰めるかのようないろは紅葉

改易に至る理由や家康との父子関係には諸説あり、ここで書き始めると収まりがつかなくなりますので別の機会にしますが、ともかく、松平忠輝は諏訪で不遇の後半生を過ごし、そして亡くなりました。

そんな松平忠輝を慰めるように、彼の眠るお寺に、かつて自らが拓いた高田の街から、正室・五郎八姫の名を冠する紅葉が植樹されたのです。

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貞松院のいろは紅葉は燃えるような赤色がとても印象的でした。

 

たまには真面目な記事も書くのです。

では、また。 

お題「紅葉2016」

 

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