どうも。休日は観光ガイドをやっておりますhesochaです。今日も雨だというのに12名ものお客様に街歩きガイドにご参加いただきました。ありがとうございます。
昨日、一昨日の記事はいづれも下諏訪にある慈雲寺というお寺に関連するものでした。今日はその慈雲寺について書いていきます。田舎にありながら寺格は高く、信玄公にも大切にされたお寺です。
慈雲寺とは
慈雲寺の創建は正安2年(1300)です。当時、下社大祝の金刺満貞(かなさしみつさだ)は神職である一方、武士として鎌倉幕府に仕えていました。そして当時の執権北条貞時の信任がとても厚かったそうです。
満貞は宗から来朝して建長寺住職になっていた一山一寧(いっさんいちねい)に参禅帰依しており、郷里に一寺を建立して、頼んでその開山となってもらいました。
その後も二世には石梁任恭(せきりょうにんきょう)、三世には雪村友梅(せっそんゆうばい)、四世には竺芳祖裔(じくほうそえい)と鎌倉・京都五山の住職を務めた名僧が続き、田舎の寺としては珍しいほど寺格を高めました。この背景には幕府での金刺氏の影響力が絶大だったことがあげられます。
慈雲寺へと向かう参道
竜の口から階段を上り慈雲寺へ向かいます。現在はお寺まで車で行くこともできますが、こちらから行った方が雰囲気もありますので、健脚の皆さんは是非こちらからどうぞ。
途中、信玄公ゆかりの矢除石があります。
階段は割と長く、傾斜も急です。途中、石のベンチがありますので休みながら進んでください。
山門
奥に見えるのが慈雲寺山門です。安永5年(1776)に建立されたものだそうです。竜の彫刻が立派なのですが、すいません。写真撮り忘れました。
途中、左側に高島城を築城した日根野高良の供養塔があります。
天桂松
山門をくぐるとまず目に飛び込んでくるのが、この立派な松の木です。
一木一石といわれる禅寺の庭にふさわしいこの松は、慈雲寺第七世の天桂玄長(天桂禅師)の植えたものとして「天桂松」と呼ばれています。
樹種はアカマツで樹高は4.5m、胸高幹囲2.3m、太い幹は地上から3mほどのところで6本に枝分かれして、枝先を長く伸ばし、地上にまで達しています。その枝の広がりは東西方向に17m、南北に13mにも及びます。樹齢は400年ほどといわれている名木です。
天桂禅師は戦国大名・武田信玄が活躍していたころの慈雲寺の住職です。武田時代の慈雲寺については、「信州慈雲寺領のことは釈首座が申されるように相違なく進めておいて、なお新儀については重ねてうけたまわる」という「武田晴信寺領安堵状」が天文21年(1552)に出されています。
本堂
安堵状が出される以前、天文6年(1537)に慈雲寺は焼失しています。この際、信玄が大檀那となって伽藍を再興したと言われています。
写真のように、現在も本堂には梶の葉紋と武田菱とが使われていますが、これは開基の下社大祝金刺満貞を偲んだ諏訪梶と再建した信玄公を偲んだ武田菱だと言われています。
2種類の紋が使われているお寺というのは珍しいのではないでしょうか。時代ごとに権力者から大切にされてきたことが伺えます。
このお寺は下社からも歩いてこれる距離にあります。下社に参拝の折には是非こちらにも足を延ばしてみてください。
ではまた。