昨日の投稿の続き?になります。
子どもの頃、秋のお祭りでは神輿も担いでいたんですけどね。なんか、僕のとこの神様、君らの街ではとんでもなく凶悪な妖怪らしいね…
でもね、君らが何と言おうと、諏訪ではとてもエライ神様なんだ。その証拠に、立派な神社だってあるんだから。
と言うことで、以下、二神をお祀りする神社について
手長神社
手長神社は茶臼山の中腹にあり、手摩乳神(てなづち=諏訪明神の祖先)を祀る古い神社である。地元では前述のとおり諏訪明神の祖先と言われることが多いが、それ以外にも、諏訪明神が諏訪に入るまで手長神が茶臼山にいてこの地を治めていたとの伝説もある。
創立については不明であるが、鎌倉時代にはその名がすでに登場することから、それ以前から鎮座していたことは間違いがない。江戸時代に入ると、高島城の艮(うしとら=北東)の方角に位置することから、高島藩の総鎮守として畏敬を集め、代々の高島藩主の信仰も厚かった。
祭日の一つ八朔(8月1日)の相撲は大いに賑い、諏訪の三盛事と言われたそうです。
拝殿は立川流初代棟梁立川和四朗冨棟によって建てられており、諏訪市の有形文化財に指定されています。また、境内には宝永6年(1709年)伊藤庄左衛門によって建造された旧社殿の建物が弥栄神社として祀られており、こちらも市の指定文化財になっています。
足長神社
足長神社は四賀の上桑原にあり、脚摩乳神(あしなづち)を祀ってます。かつて、この一帯が桑原郷と呼ばれていたころは足長・手長の両神を祀っていたが、桑原郷が上桑原と下桑原に分かれるようになって、上桑原では脚摩乳神を、下桑原では手摩乳神を祀るようになったと考えられています。
諏訪圏内でも由緒の古い神社で、拝殿・舞屋・本殿が市の有形文化財に指定されています。
拝殿は天保14年(1843年)、舞屋は文久2年(1862年)に建てられたもので、大隅流の工匠たちの見事な彫刻が施されています。また、本殿に関しては正確な建築年は不明ですが、社額の年代等から江戸時代中期以前の建立と推定されています。
やっぱり神様として祀っているところも多かった
上記のとおり諏訪ではお二人を神様として、それもかなり重要な神様としてお祀りしています。二人の物語や姿がユーモラスなため、もしかしたら諏訪大社の建御名方神よりも子供らには認知度は高いかもしれません。
そのくらい身近な神様だったので、昨日、記事を書く前に目にした他県での妖怪・怪物っぷりは結構ショッキングでした。水木しげる先生の作品に出てくる妖怪くらいの愛らしいものならともかく、人さらって喰って、火山の爆発で退治されるとか…
昨日の投稿後、もう少し調べてみたのですが、まぁ、やっぱり、妖怪・怪物、それも完全な悪役で伝わっている例は他にも何か所かあるようです。
ですが、逆に、諏訪のように立派な神様としてお祀りしている場所もかなりの数あるようでした。
例えば、島根県の熊野大社や八重垣神社、石川県の気多大社、宮崎県の都農神社などにはてなづち・あしなづちの祠が祀られているそうですし、兵庫の廣峯神社や埼玉の氷川神社などでは祭神の一柱として祀られているそうです。
それから、これらの妖怪やら怪物やら巨人やらの伝説のほかに、不老長寿の神仙としての伝承もあるようで、これは諏訪と同様に奇稲田姫の父母手名稚(てなづち)と足名稚(あしなづち)に由来するものだそうです。長寿を願って姿を描くそうで、御所の宮殿内などにも天皇の長寿を願った絵があったそうです。
その信仰の影響でしょうか、下の写真は手長神社の本殿なのですが、写真の左に写っている巨木を「延命の杉」と言います。
ウチの地元だけ神様で他ではどこも化け物ってことはないみたいです。まぁ、よそでどのように扱われていたって関係ないのでしょうが、何か、ほっとしますよね。
出雲系の神様ってことが影響するのか
海外なんかだと、敵国に占領後、それまでの神様が悪魔にかえられることがありますよね。キリスト教が広まった後のヨーロッパなんかはそんな傾向が強いように思います。
古代日本でも、それに近いことがあったんでしょうか。古事記なんかを読む限りでは、割と敵方にも寛容で、むしろ、相手の歴史や文化も吸収して、キレイに一つの物語にしている印象があるのですが。
あ、いや、でもウチの神様、本来出雲関係ないのに出雲で負けて諏訪に逃げて来たことになっていたなぁ…
やっぱり、ある程度はそういう悪意のある創作もあったのだろうか?
考えてみたら、てなづち・あしなづちが仮にそんな化け物だったなら、そもそも、スサノオに何ぞ頼まずに、自力でヤマタノオロチぶっ飛ばして、娘救えば良い話だしなぁ…
この辺は、今後も調べてみる価値はありそうな気がしてきました。時間ができたら、妖怪伝説のあるところや、神様として祀っている神社を巡ってみたいと思います。
では、また。